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北海道支部

わが国から胃がんを撲滅することは可能か?

浅香 正博(北海道大学大学院消化器内科)


【はじめに】

 ピロリ菌除菌による胃癌予防の可否は世界中の癌研究者にとって大きな話題でしたが、わが国の臨床試験によってピロリ菌除菌が早期胃癌患者EMR(内視鏡的粘膜切除術)後の二次胃癌の発生を約1/3に抑制することが明らかになり、胃癌予防におけるピロリ菌除菌の有用性が証明されました。しかしながら除菌により胃癌発生は減少するものの完璧に抑制できないことも同時に明らかとなったことに注意が必要です。したがって、わが国から胃癌を撲滅するためには除菌後も定期的な経過観察は必要になります。わが国からの胃癌撲滅計画を策定するにあたって、除菌による一次予防と検診による二次予防をどのように組み合わせるかが最も重要になると思われます。

【1. わが国のこれまでの胃癌対策】

 わが国の癌対策事業は胃癌を含め主として原因を追求しそれを排除する一次予防ではなく、癌の早期発見をめざす二次予防が行われてきました。胃癌検診は、これまで間接バリウム撮影により行われてきましたが、近年の受診率は10%前後しかないのが現状です。バリウム撮影による検診は早期胃癌を診断する感度の点で問題を含んでいます。早期胃がんのような小さな胃がんは間接撮影では見逃される危険性が高いのです。また少ないとはいえレントゲンによる被曝も重要な問題となりつつあります。また、40歳以上のすべての人を対象としていることも大きな問題なのです。なぜなら50歳未満の胃癌患者はわが国の胃癌全体の3%余にすぎないので公的な対策型検診にはふさわしくないと考えられます。一方、ピロリ菌が陰性で胃粘膜に萎縮の変化がほとんど見られない例は胃癌発生の可能性が極端に低いことが知られていますので、このような人にバリウム検査を毎年行うことは何の利益もなく、放射線による副作用の方がはるかに心配であるといえます。二次予防に絞ってみても、これまで行われてきた間接バリウム法による胃癌検診は問題点が多くこれを継続しても胃癌を激減させることがほとんど不可能であると思われます。
 わが国の胃癌対策の致命的とも言える欠陥は、一次予防に関して何も行っていないことなのです。確かにわが国で胃癌検診の始まった1970年代には胃癌の原因は特定されていませんでした。しかし現在では、わが国の胃癌の95%以上はピロリ菌感染に基づいて発症することが明らかになっています。感染症由来の癌の場合、肝癌や子宮頚癌対策のように一次予防としてその感染源を遮断し、その次の策として二次予防としての検診を計画するのが原則と思われます。それゆえ、胃癌対策のみが肝癌や子宮頚癌対策と異なって一次予防を全く考慮に入れていないのはきわめて奇妙な現象といえます。二次予防としてのバリウム検診しか行われていない結果、わが国では30年以上に亘って胃癌による死亡者数が5万人前後とほとんど変化していないという信じ難い状況が生まれているのです。
 近年、血液による胃炎の診断法がクローズアップされてきています。胃がんは正常の胃粘膜からは発生しないので、胃炎ことに萎縮性胃炎を見つけることが重要なのです。これまで萎縮性胃炎の診断は内視鏡しかできなかったのですが、近年、胃の消化酵素であるペプシンの前駆物質の血清ペプシノーゲンを測定することで胃炎ことに萎縮性胃炎を診断することが可能になりました。血清ペプシノーゲンは胃炎のマーカーとしてまもなく保険が適用される予定です。これに胃炎の原因であるピロリ菌の感染診断のための抗体法を組み合わせることによって胃癌になりやすいかどうかを判定することが可能になってきました。要するに、胃癌の発生母地となる萎縮性胃炎を引き起こすピロリ菌の有無をピロリ菌抗体法で検索し、現在胃炎の所見があるか否かをペプシノーゲン法で検索すれば、胃癌を引き起こしやすい胃粘膜を有しているかどうかが容易に判定できるのです。

【2. ピロリ菌除菌による胃癌予防の試み】

 ピロリ菌感染が胃癌の重要な危険因子であることが明らかになるにつれて、ピロリ菌除菌により胃癌の発生が抑制されるか否かが注目されてきており、世界各国で健常人を対象としたピロリ菌除菌による胃癌の発生予防の介入試験が行われてきました。しかしながら、欧米では、胃癌の発生自体きわめて少ないことより、有意差検定に必要な胃癌の症例数が集まらず、ほとんどの研究が中途で終了してしまいました。
 これまでの研究をベースに新たな前向き研究の方向性を検討したところ、症例数が少なく、観察期間も短く済む臨床試験としては、胃癌発生率の最も高いEMRを施行された後の早期胃癌患者を対象とするしかないという結論が得られました。そのため、Japan Gast Study Group(JGSG)という大学や病院にとらわれない組織を作り、全国51施設の参加のもと、早期胃癌に対する内視鏡治療が行われた544例を対象に無作為割付にて除菌、非除菌に分け、1年毎に3年間内視鏡検査を施行して胃癌の異所性再発の有無を観察したのです。2006年9月にキーオープンされた結果、非除菌群から24例、除菌群から9例の異所性再発が観察され、危険率1%以下で除菌群が胃癌の発生を有意に抑制したことが明らかになりました (図1)
 この研究は前向き研究で十分な症例が検討されており、長い間議論の対象であった除菌による胃癌予防の可能性についてはっきりした結論をもたらしたのです。すなわち、ピロリ菌の除菌により、胃癌の発生は3分の1以下に抑制されること、萎縮性胃炎や腸上皮化生の存在や早期胃癌を発症していても効果が認められることが明らかになりました。本論文により、胃癌の大半はピロリ菌の感染により発症する感染症であることが改めて確認され、除菌による予防効果も確認されたのです。

【3. 具体的な胃癌撲滅プロジェクト】

 わが国の50歳以降の全員に血清ペプシノーゲン、ピロリ菌抗体測定を行うことを提案したいと思います。その結果に基づいてピロリ菌陰性、ペプシノーゲン陰性群をA群、ピロリ菌抗体陽性、ペプシノーゲン陰性群をB群、ピロリ菌抗体陽性、ペプシノーゲン陽性群をC群、ピロリ菌陰性、ペプシノーゲン陽性群をD群として4群に分けます (図2)。A群は胃粘膜の萎縮性変化に乏しく胃癌の発生はほとんど見られないことが明らかになっています。したがって、A群は以後の公費による対策型検診から除いてかまわないと思います。B群は胃粘膜の萎縮性変化は弱いことから胃癌の発生は少ないのですが、ごくわずかスキルス胃がんが発生する可能性があります。C群は胃粘膜の萎縮が明瞭に見られ、胃癌の発生の危険性は高いことが知られています。D群の頻度はきわめて低いのですが、胃粘膜の萎縮は強く腸上皮化生を伴い、胃癌発生の危険性は最も高いのです。D群はピロリ菌感染が長期間続き胃粘膜は疲弊し腸上皮化生を伴っており、ピロリ菌生育の環境としては適さなくなるため菌数が著減し、見かけ上、抗体が陰性となるケースです。
 B、C、D群については全員除菌治療を行うべきであると考えます。このうちB群は、除菌に成功するとA群とほぼ同じ状況になり、除菌1年後内視鏡検査を行った後、問題がなければ対策型検診から除いてよいと考えられます。以後は、自分の責任で人間ドックなどの任意型検診を受けるべきであると思われます。C、D群は除菌後も内視鏡による定期的な観察が必要になります。胃の粘膜の痛みが激しいため除菌を行っても胃がんが発生する可能性があるのです。高齢者に多いパターンです。しかし、毎年の必要はなくC群は3-5年に1回、最も胃癌を発生しやすいD群は1-2年に1回くらいが適当と思われます。C,D群には萎縮性胃炎が存在していますので内視鏡検査は保険適用になり、3割の自己負担で行うことができます (図3)

 このプロジェクトの遂行のためには、現在行われている健康増進事業に基づく胃癌検診ではなく、肝炎・肝癌対策と同様に胃炎・胃癌対策基本法を制定し、胃癌撲滅に対する具体的方策を考える機関を設立する必要があると考えられます。

【5. 胃癌撲滅プロジェクトの意義】

 わが国の高齢者人口は団塊の世代が還暦を迎え急速に増加しています。胃癌の発生率や死亡率は減少を続けていますが、高齢者人口が増加したことに伴い、胃癌の死亡者数は増えてきています。したがって、団塊の世代が胃癌発生のピークを迎える2020年ころには胃癌患者死亡者数は6万人近くに達する可能性が高いのです。
この胃癌撲滅計画にわが国の50歳以上の約半数が参加したと仮定すると、胃癌で亡くなる人の数は何も行わない場合の6万人から3万人に減少すると考えられるのです (図4)
 わが国の国民病とも言える胃癌を撲滅するためには、胃癌の大半がピロリ菌によって生じる感染症であることを国民に理解してもらうよう務めることであり、その撲滅戦略には政府自らが先頭に立つ必要があると思います。現在行われている10%程度しか受診しない間接バリウム検診に代わって、血清ペプシノーゲン、ピロリ菌抗体同時測定を行うことにより胃癌の高危険群をしぼり、除菌とその後の経過観察を組み合わせる新しい方策を至急採用すべきであると考えます。50歳未満の方については早期にピロリ菌の有無を検索し、陽性者には除菌を行うのです。若い人の場合はピロリ菌による胃粘膜傷害の程度が軽いことが多いために、除菌のみでほぼ100%胃癌の発生を予防することができるのです。胃癌のみならず、ピロリ菌によって引き起こされる胃・十二指腸潰瘍、胃MALTリンパ腫、胃ポリープなどもすべて予防が可能となります (図5)

【おわりに】

“疑わしきは罰せず“という原則は、法律の世界で適用されていますが、感染症の場合は逆であり、”疑わしきは罰する“が原則なのです。したがって、感染症由来が疑われる癌であれば、積極的な予防対策を行うことにより癌の発生数が激減し結果的に死亡者数が劇的な減少をたどってくる可能性がきわめて高いのです。癌の原因に基づく一次予防は、検診などの二次予防に比べて効果は確実でありかつ永続的に持続するので患者にかかる費用も顕著に減少してくる特徴を持っています。日本の厚生労働省には、感染症対策の原点に返って感染症由来の癌対策を積極的に考えてくれるよう要望します。団塊の世代が還暦を超え癌年齢に突入した今、癌治療への医療費の爆発的な増大が目前に迫っています。残された時間はわずかしかないのです。

図  表 

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図1

図2

図3

図4

図5