「心の旅」「青春の影」「サボテンの花」、そして松田聖子さんをはじめとする多くのアーティストのために書かれた名曲の数々。財津和夫さんはチューリップ時代、その後のソロ活動を通じて長年にわたり美しいメロディを紡ぎだし、70歳を超えたいまもステージで多くのファンを魅了しています。2017年6月、TULIP結成45周年のツアーの最中に大腸がんを公表。治療に専念するため4公演を中止するとの報道は、テレビのニュース速報でも流れ、社会に大きな衝撃を与えました。それから2年、治療も終わり元気に音楽活動を再開している財津さんに、主治医の渡邊昌彦先生とともに当時の想いや、互いの仕事について語っていただきました。
(2019年5月27日収録)
記憶にあるのは痛みと苦しさだけ
渡邊
財津さんとはもうかなり長いお付き合いになりますね。
財津
お友達というのはあまりにもおこがましいのですが、僕が一方的にお慕い申し上げていて。コンサートにも来ていただいたりして、仲良くしていただきありがとうございます。
渡邊
実は、私のカラオケの十八番は「心の旅」なんですよ。
財津
いや、それはたぶん嘘だと(笑)。
渡邊
本当です。そらで歌えます。
財津
本当ですか。ありがとうございます。
渡邊
財津さんが下行結腸がん(注1)で私の病院に来られ、内視鏡外科手術(注2)をさせていただいたのが2017年6月でしたね。
財津
はい。福岡でツアー中のオフの日で、のんびり過ごしていたところ突然腸が痛くなり、福岡市内の救急病院に駆け込んで検査していただいたところ「腸閉塞(注3)です。がんの可能性もあるのですぐに手術しましょう」と言われました。手術となるとこのまま長く福岡に滞在しなければなりません。それも困ったなと思って、東京で以前から存じ上げていた渡邊先生に駆け込みのような形で治療をお願いすることにしました。
渡邊
腸閉塞とお聞きして、財津さんは手術をされた経験もないのに腸閉塞になるのはおかしいと考えました。C Tスキャンなどで検査したところ、下行結腸にがんがあり大腸が狭くなっていたために腸閉塞を起こしていたことがわかりました(図)。そこでまずは腸をきれいにして、空になった時点で内視鏡外科手術をしたわけです。
財津
そうだったのですね。僕は意識が半分ない状態でした。痛みで脂汗をかきながら福岡から飛行機に乗り、そのまま先生の病院へ向かいました。着いたときは本当に良かったと安心しましたが、前後の記憶があまりないのです。痛かった、苦しかったことしか覚えていません。
渡邊
そうでしょうね。本当によく飛行機で来られたものだと思いました。
がんを受け入れたのは、きっと嘘だった
渡邊
一般に患者さんは、医師からがん告知を受けてもすぐには理解できないものです。1週間ぐらいは平常心に戻らないという研究結果もあります。そして、どうしても先のことを考えてしまいます。財津さんはいかがでしたか。
財津
自分自身と「これは現実だよな」と会話しながら、現実を受け入れなければいけないと思いましたね。がんの知識もないですから、「このまま死ぬのかもしれない」という気持ちがありました。死ぬか、助かるか。死ぬのなら心の準備をしなければいけない、助かるなら…と、両方の未来が毎日交互に来ていました。そのうち時間が経つにつれ「もうこうなった以上、どうしようもない」と受け入れる気持ちになりました。でも、こうしていざ生還してみると、すごく嬉しいです。あきらめて、がんを受け入れる気持ちになったというのは、いま振り返るときっと嘘だったのだろうという気がします。
注1 下行結腸がん
下行結腸がん:大腸がんはがんの発生した部分により結腸がん・直腸がんに分かれる。下行結腸がんは大腸がんの一種で、大腸がん全体の約5%を占める。早期がんは症状がないことが多いが、がんが進行し内腔が狭くなると、便が通過しにくくなり便秘と下痢を繰り返すなどの症状や、腹痛や腸閉塞などの症状が現れる。治療は手術療法が中心で、がんを中心に大腸を20cmほど切除し、がんが転移している可能性のある範囲のリンパ節を郭清した上で残った大腸をつなぎ合わせる。人工肛門の必要はなく、術後の生活への影響も比較的少ない。
注2 内視鏡外科手術
5mm~2㎝程度の切開創からカメラ(大腸内視鏡など)と手術器具を入れて行う外科手術。1992年以降、大腸がんの治療が開始され、2000年以降普及が進んだ。現在では結腸、胆嚢摘出術,前立腺摘出などで標準治療となっている。
注3 腸閉塞(イレウス)
様々な原因によって、小腸や大腸で食物や水分の通過が悪くなるか、完全に遮断されてしまい、腸管内容物が肛門方向に運ばれなくなる病気。すぐに原因を取り除かないと、全身状態が急激に悪化して死に至ることもあるため、早急に専門医を受診して適切な治療を受ける必要がある。
初めての入院体験
渡邊
財津さんの受けた大腸がんの内視鏡外科手術は、1992年に僕が日本で初めて行ったのです。患者さんが術後元気であまり痛みを訴えなかったので「これは本物だ」と思いました。創が小さいという利点だけでなく、腸の動きの回復が早いのです。というのは、腸に炭酸ガスを入れて膨らませて動かしておいたまま、必要な部分だけ切除してつなぎ直すだけですから、腸の他の部分は自分の仲間が一部いなくなっても気づかずに動いているのです。腸がきちんとつながれば、翌日から水も食事もとれるし歩くこともできます。いまや内視鏡外科手術は下行結腸がんの標準治療の一つになりました。
財津
僕にとっては人生で初めての入院でした。子供の頃から悲しい入院日記の本を読んで、入院だけは嫌だと思って生きてきたのです。でも、初めての入院はすごく気持ち良く、こんなにのんびりできるんだなと思いました。術後、先生には日々様子を見にきていただきましたね。一番印象に残っているのは「財津さん、いま何をやりたいですか」とおっしゃった。僕が「ゴルフです」と言うと、「ドライバーは無理ですね。アイアンもちょっと無理かな。まあ、そのうち」と病室を出ていきながら、出口付近で「パターはOKです」と言われて(笑)。
渡邊
覚えていますよ。まだ術後1週間も経っていませんでしたからね(笑)。
財津
先生のお言葉で、ゼロになっていた気持ちが30ぐらいに上がりました。
病気が成長させてくれた
渡邊
その後ゴルフはいかがですか。
財津
おかげさまで以前よりボールが少し飛ぶようになりました。ずっとあった腰の痛みもなく不思議なくらいです。実は腸には長い間不快感と鈍痛が続いていて「とにかく健康になりたい」と思っていたのですが、手術していただいてからはそれがなくなりました。
渡邊
もっと早く相談してくれれば良かったのに…。大腸内視鏡検査も胃内視鏡検査も、僕はどれだけ勧めたかわからない(笑)。でも財津さんはとにかく検査が嫌い。
財津
好きな人はいないと思いますけど(笑)。病院に行くとその後のコンサート活動に影響が出そうな気がして。特に大腸内視鏡検査でポリープを取ると数日間は動けなくなると聞いて…。
渡邊
それはないです(笑)。
財津
え、ないんですか。誤った風評を信じていました(笑)。
渡邊
財津さんのようなお仕事をされている方は、皆さんすごく繊細です。そして多くのスタッフの生活が財津さんお一人にかかっていて、重い責任を背負っているから、なかなか休めないのでしょう。
財津
責任感というと立派そうですが、ライブに大勢の方が来られる前に倒れられないという格好つけがあって、その勢いだけでやっていました。「自分はできるんだ」とか「こういう立場なのだから弱音は言えない」と、どこか勘違いしていたのだと思います。これまで一度もコンサートに穴をあけたことがなかったので、今回の病気はショックで、「お前もただの人間だ」と天から厳しく言われたような気がしました。少しは成長できたかなという気がします。
復帰できた喜びを噛みしめて
渡邊
財津さんは術後の再発予防の化学療法(注4)の副作用にも淡々と向き合う、模範的な素晴らしい患者さんでした。治療終了後、再開されたコンサートも素晴らしかったです。
財津
復帰できた喜びを噛みしめながら、ステージに立っています。いまは復帰からだいぶ経ちましたので、客席の皆さんももう病気のことを忘れて一緒に歌ってくださいます。音楽以外のことを引きずっていない、客席とステージが歌でつながっている絶対的な世界だけがあるような感じがして、とても嬉しいです。
渡邊
財津さんの歌は、私たちの希望です。一度に何百人、何千人に希望を与えられる仕事ですから、いつまでもやってほしいですね。
財津
先生のお仕事こそ、患者さんに希望を与えてくれています。僕自身、渡邊先生がいなかったら、いまごろ絶望の男になっていたかもしれません。
渡邊
外科医には、一つの曲で数多の人の気持ちを慰めることはできませんが、一人でも多くの人のために良い手術を安全に広めることはできるだろうと思いました。大腸がんの内視鏡外科手術も自分一人の技術にするより、多くの医師が同じようにでき、患者さんを助けられるほうがずっといいと考え、30年近く普及に努めてまいりました。ですから、もし財津さんが他の病院で治療を受けられていても、いまと同じように元気に歌っておられるだろうと思います。ただ、人間と人間の触れ合い、患者さんとの接し方といったコミュニケーションは自分にしかできないものです。医師としての技術は最低限持った上で人との触れ合い、良いコミュニケーションができるのが、医師としての私のアイデンティティなのだと、最近思うようになりました。
財津
なるほど、またパターのお話を思い出しました(笑)。
構成・中保裕子
注4 化学療法
抗がん剤、分子標的薬、ホルモン剤、免疫賦活剤(免疫力を高める薬剤)等を使う薬物療法。手術ががんの病巣を取り除く「局所療法」であるのに対して、化学療法は「全身療法」に当たる。大腸がんの場合、手術後に再発予防を期待して「補助化学療法」が行われることが一般的。複数のがん治療薬や、副作用を和らげるための薬を併用することが多い。